2008年から12年の長きに渡り、トライフォースでインストラクターを務めてくれていたカズこと佐藤雅一先生が、2020年9月9日を持って退任する事となりました。ご家族と共にイギリスへ移住し、パン屋さんをオープンさせるべくチャレンジをすることに決めたそうです。
カズ先生は、池袋本部の前身となる巣鴨道場の時代から、トライフォースの発展のために尽力し続けてくれました。長い間本当にお疲れさまでした。感謝の心で胸がいっぱいです。
事後発表となってしまったのは、昨今の新型コロナの状況により、移住ビザを取得できるタイミングが最後まで分からなかった為です。来週末には渡英しますが、年内に帰国する機会があるとのことで、皆様にご挨拶させて頂く機会は改めて作りたいと思います。
いずれにせよ、移住のことは抜きにしても、指導体制の若手への世代交代については考えていました。カズ先生ともその想いを共有していました。今がその時であろうと。カズダンスの時代からラ・バンバのラテンのリズムへとバトンを引き継ぐべきだねと。
忘年会で大暴れする佐藤先生
茶帯昇格の日 トライフォース巣鴨道場にて
現在の本業?は「ひぐらしベーカリー」の店長さん
カズ先生のインストラクターとしてのはじまりの記録が、旧トライフォースブログに残っていました。
キングカズ先生
http://tfbjj.doorblog.jp/archives/51197571.html
何事もアーカイブ好きな私の性格が功を奏してか、このような記事を読み返すことが出来ました。
このブログでは、感謝の意味も込めて、カズ先生との思い出を書かせてもらおうと思います。カズの柔術半生を、私の人生とクロスオーバーする部分が中心にはなりますが、追ってみたいと思います。
格闘技との出会い
カズとは十代の頃からの友人です。地元や学校は違ったのですが、共通の友達を介して遊ぶようになり、馬が合ったのかすぐに親友になりました。若者らしい青春時代を共に謳歌しました。お互い格闘技好きということでも意気投合し、通販でオープンフィンガーグローブとかを買って、公共の体育館で一緒に取っ組み合ってみたりしていました。
20歳になった年、私は柔術をはじめることになりました。カズもほぼ同時期に格闘技をはじめたのですが、私と同じ柔術道場ではなく(その経緯は忘れてしまいましたが)、当時御茶ノ水にあった和術慧舟會の東京本部に入門しました。今思えばそれが最初の運命の別れ道だったかもしれません。
かたやブラジル仕込みの陽気な雰囲気の道場で、かたや虎の穴のような道場であった(と聞いている)からです。高瀬大樹さんや宇野薫さんも当時一緒に練習していたとカズは話していました。その後、カズは広尾にオープンしたパンクラスのジムP’s LAB(ピーズラボ)に移籍しました。当時カズが一番好きだった格闘技(プロレス?)はパンクラスで、ようするにミーハーだったということです。
柔術同門時代
お互い違う道場で練習していましたが、私の柔術道場へカズを何度か出稽古に誘い、一緒に練習する機会がありました。柔術の魅力に一気にとりつかれたカズは、遂に私と同じ道場へ移籍することを決めました。移籍というか、他所を辞めて新しいところへ入るだけですね。当時は今よりもカジュアルなアクションでした。
柔術家としては、ご存知の通り私がおそろしいスピードで強くなってしまい、あっという間に日本のトップに登りつめてしまったので(笑)、カズとの立ち位置に違いは出てしまいました。しかしカズも熱心に練習に取り組み続け、アマチュア修斗にチャレンジしたりしていました。開始のゴングと同時に飛び蹴りをかまし、かわされて撃沈していましたね。昔の仲間も集まってみんなで応援したのが良い思い出です。
ジョーモレイラ杯にて(左から大気、カズ、故カーソン・グレイシー先生、早川)
ニューヨーク移住、海外の試合
そうこうしているうちに、カズとは一時別れの時がやってきました。海外にかぶれ、海外に住むことへのステイタスを感じてやまなかったカズは、ニューヨークへ行くことを決めました。ピースの綾部のようなノリでした。1999年のことでした。盛大なお別れ会「KAZZ NIGHT」の後、カズは旅立ったのですが、その年、ちょうど私も人生初の海外遠征にチャレンジすると決めており、アメリカで落ち合う約束をしました。
カズが旅立つのとほぼ同時に、私もサンディエゴへ飛び、山本大気君の家でホームステイさせてもらいながら初めての海外修行に明け暮れました。そしてその年の9月、ロサンゼルス開催のジョーモレイラ杯で約束通りカズと合流し、山本大気君と3人で出場しました。ちなみに大気はファビオ・サントス先生の弟子でしたが、巡り巡ってその14年後に、私が大気に黒帯を授与することになるとは、この当時お互い知る由もなかったです。
パン選手権での合流、ヘンゾ・グレイシー門下時代
カズとは、翌2000年4月に行われたオーランド開催のパン選手権(当時パンアメリカン選手権)でも再び合流し、一緒に戦いました。その後、私は帰国途中にニューヨークへ立ち寄ることにし、カズのアパートで何日か過ごしました。その時にはじめて現ヘンゾ・グレイシー道場ブルックリン支部の支部長である山地大輔君と出会いました。カズと大輔はヘンゾ道場の同門であり、私はヘンゾの道場だけでなく、弟子のマット・セラが当時やってたサークルとかでも一緒に練習させてもらったりしました。ニューヨークはこの時の旅で名所を周りきったので、私はそれ以降もう行ってないです。
3年間所属したヘンゾ・グレイシー道場
ニューヨークのどこかにて
帰国、神戸での就職
4年後、カズが帰国することになりました。しかしカズの次なる新天地は神戸でした。そちらの会社への就職が決まっていたのです。そしてなんとグループで一緒に遊んでいた私の高校時代の親友(女子)と電撃結婚することになり、帰国してすぐそのまま二人で神戸へと旅立っていきました。
神戸には私の通う道場の支部があったので、カズはそこに入門し、場所は違えど再び同門の立場となりました。そしてカズと川本先生(トライフォース大阪支部長)、西村さん(神戸トヨペット社長)のお三方も、その道場で出会い、今も続くご縁となったのでした。
私は、神戸在住中のカズのアパートを毎年訪ねました。カズの奥さんと三人で京都へ足を伸ばし、観光したりもしましたね。今思い出しました。タクシーにジャケット置き忘れたりして大変でした。あれはピュアブレッド京都へセミナーをしに行った時でしたかね。
カズ夫妻と清水寺にて
カズたちは、私が訪ねるといつも有馬温泉という温泉街へ連れて行ってくれました。その想い出が印象深く、私も近年、神戸セミナーへ行く際には新明や山田を有馬温泉へ連れて行ったりしてました。新明、山田、あそこにはそんなエピソードがあったんだよ。
この神戸時代を「カズのムチムチマッチョ時代」と私は呼んでおり、筋トレに目覚めたカズは100kgくらいまで巨大化していました。試合時の階級はペナ級(現フェザー級)でしたので、短期間で増量し異様にムッチリした肉体を持て余しているように見えました。アメリカはカズを変えてしまいました。
落ちぶれても元上流家庭
神戸勤務は3年間くらいだったでしょうか。カズはいよいよ東京へ戻ることになりました。家業を継ぐ日がやってきたのです。私も同時期に遂に独立を果たし、東京都巣鴨にトライフォースを立ち上げたばかりでした。東京に戻ったカズはすぐに入門してくれて、在籍歴としてはそこから今日に至ります。
カズは実は御坊コンツェルンに匹敵する会社の御曹司でした。どことなく平安貴族のようなたたずまいを感じるのはそのためです。創業90年以上を誇る老舗で、東京23区内に1000坪の土地を有していましたが、時流に押されて負債がかさんだところでの継承でした。カズは999坪の土地を売却する決断をくだし、負債の整理を断行し、会社を立て直しました。そして残り1坪の土地にハリボテの家を建てました。
1坪の土地に建てられたハリボテの家
BBQにまねかれた芝本とエビ蔵
運命の大怪我
トライフォースに入門してからは、カズは良いペースで練習を積み上げ、ほどなくして私から紫帯を授与されるまでに至りました。プライベートでは同い年の親友でしたが、道場では師弟として接する、そんな関係でした。私は石川(祐樹)さんやナオさん(ちゃんナオ)ともそんな感じでしたね。
重厚感あふれるパスガードで攻めるスタイルのカズは、私にとっても良き練習パートナーの1人でした。年に1~2回はニューヨークから(山地)大輔も帰国し、トライフォースへ練習に来てくれました。練習後はよく3人でご飯を食べに行きました。たまに現れては道場の全員をなぎ倒し、ふと出た大会ではサクっと優勝してしまう大輔の衝撃的な強さを目の当たりにして、当時のトライフォースに第1次ノーギブームが起こりました。
そんな感じで楽しい日々は続き、カズも黒帯を目指してがんばっていく気満々だったと思います。その矢先に事件は起きました。練習中の不運な事故で、カズは首に大怪我を負ってしまったのです。結論から書きますと、その日以降、カズは二度と柔術のスパーリングが出来ない体となってしまいました。
ある日
怪我をした瞬間のカズは、全身が麻痺したような状態になり、マット上で大の字に寝たまましばらく動けなくなりました。全身不随になったかと思い、私は頭が真っ白になりました。幸いにしてそれは一時的な症状で、次第に四肢に力が入るようになり、自力での帰宅も出来ました。
しかし翌日以降の精密検査で、頚椎に危険なずれが生じ、未だ不安定な状態となっていることが判明しました。そして医師からは、次にこの部位の骨が動けば命の保証はないと言われました。手術での整復も不可能な場所であると。
それが分かった時のカズの絶望感はいかほどだったか、私には推し量ることもできませんし、かける言葉もありませんでした。昨日まで普通に柔術ができていたのに、もう二度と出来なくなる。ある日その可能性がぷつりと閉ざされる。そんなことが現実に起ってしまったのです。
指導者としての私にも苦悩と葛藤の日々が続きました。事故は本当に防げなかったのか、自問自答を繰り返しました。
治療の日々
その後、カズは体調がすぐれない日々が続いていたと記憶しています。やはり首の負傷ですので、目や、手足の動きに違和感が生じ、言葉で説明出来ない不調を抱えているのがわかりました。柔術はおろか、その他のスポーツも何もできなくなる、日常生活にも支障をきたすのではないかという焦り。常に首に爆弾を抱えている心理的恐怖も半端なかったと思います。「よ、カズ、久しぶり!」と10年ぶりの友達がうしろから背中をドンと叩いて驚かせただけで、極端な話その骨はずれる可能性があったからです。
症状が落ち着いてからは、リハビリやトレーニングも開始し、首周りの筋肉を補強し始めていました。効くかも知れないという話があれば、何でも試していたと思います。食べ物から何から。会員の荒さんからMAT(Muscle Activation Techniques®)の施術も受けていました。あえて書きますが、気功治療のようなものも高いお金を払って受けていました。遠く他県まで車を飛ばして気功師さんのところへ通っていました。可能性があるなら何でも試した方が良いよ!と私も応援しました。もしかしたら治るかもしれない。治った人からの話も聞くというし。何事もやってみなけりゃ分かりません。
道場って何なの?
私と違い、カズは柔術で飯を食っているわけではありません。誤解を恐れずに言えば「趣味」でした。とても真剣に取り組んでいた趣味。日常生活に支障をきたさないレベルまで体が回復すれば、こんなもの命がけで再開するようなものではありません。その必要はないのです。
しかし道場って何なのでしょう。柔術って何なのでしょう。柔術道場って、柔術をやるためだけの場所ではなかったんですよね。その時にその当たり前のことに気づきました。道場というコミュニティに帰属し、先生と、仲間たちと、後輩たちと、共通の目的に取り組み、分かち合い、助け合い、時を共に過ごす。そのための場所でした。今のカズにとって、もしかしたら柔術は必要ないかもしれないが、柔術道場は必要なんじゃないか、そんな風に私は考えました。
左からMAT荒さんと山地大輔
インストラクターへの誘い
カズは治療中もよく道場に顔を出してくれて、見学したり、仲間と談笑したりしていました。そして徐々に体調も好転し、テクニッククラスに参加できる程までに回復しました。これはもう首は治っちゃったんじゃないか?という期待をその都度抱きました。しかし3ヶ月に1回くらいの定期診察でレントゲンやMRIを撮影すると、ずれた骨はほとんど移動しておらず、未だ危険な状態であると言われてガッカリする、そんな期間がしばらく続きました。
柔術は、やはりスパーリングこそが最大の醍醐味です。スパーリングをやらない、できない限り、長期的にモチベーションを保つことは難しいと、少なくとも当時の私は考えていました。今は良くても、このまま漫然とテクニッククラスだけ参加していては、何かを試すことも、自分の成長を実感することもできず、継続の意思は薄れていくのではないかと感じました。
何よりも、スパーリングができないということで、クラス中も一歩引いているというか、周りに遠慮しているようなカズの姿を見るのがすごく切なかったです。何か状況を変える方法はないか、ある日思いたって私はカズに話しました。「人手が足りてない、インストラクターをやってもらえないかな」と。
第二の柔術人生
スパーリングをせずとも、柔術道場における新しいやり甲斐、居場所、スキルの上達や成長を実感できるものは何か、それはインストラクターになってもらうことだと思いました。カズが実力者であったことは会員の誰もが知っていましたし、説得力という意味でも十分でした。
カズは私の打診を快く引き受けてくれて、そこからインストラクターコースを開始しました。今ほど洗練されたシステムではありませんでしたが、2004年の設立当初からトライフォースではインストラターコースを設けており、カズも例外なくそのコースに参加してもらいました。
その後、冒頭のブログ記事でも紹介したように、カズは2008年にインストラクター資格を取得し、ベーシッククラス(当時ビギナークラス)の担当を任せるに至りました。新たなモチベーションと目的を持ってくれたカズの、第二の柔術人生がはじまりました。
カリキュラムや帯制度について考えるきっかけ
2009年にトライフォース本部は東京池袋へと移転しました。早川の生まれ育った場所、地元であります。カズは引き続きベーシッククラスの指導を担当してくれました。
その頃の私には一つの新しい課題がありました。カズにいつどのような形で黒帯を授与すべきか、あるいはしないべきかという課題です。
公式カリキュラムの制定、指導スキルの評価、あるいはテクニック検定の制度が生まれた背景には、理由があって競技会に出られない、または先天的な持病や体の不自由があってスパーリングで実力を示す事が出来ない、そういった方達にも帯昇格の可能性を切り開きたいという思いがありました。
スパーリングが出来なければ、実力の査定を免除することになります。もし帯の評価をそれだけに依存してしまっていたら、私たちは正しい指標を失ってしまいます。かといって年功序列や貢献度により帯昇格を果たすことは、本人にとっては不本意なことでしょう。
何らかのハンディがあっても、カリキュラムを高度なレベルで身に付け、指導スキルを上達させる事により、柔術家としての総合バロメータを補完していることを示してもらえれば、自他共に納得してもらえる昇格の機会を得られる可能性が生まれるのではないかと思いました。
その後に6年間のインストラクター経験を経て、テクニックの知識と再現力を証明したカズに、満を持して黒帯を授与する事が出来ました。あの出来事は、私にとってトライフォースの諸制度を考える上でのきっかけとなり、また同時に道しるべになったのでした。
カズの黒帯昇格は新明と同じ日だったんですね!
ブラジリアン柔術教則本の制作パートナー
カズの話から少しそれます。私は2004年に最初の著作であるDVD「アートオブ柔術」を発表しました。続いて2007年には著書「はじめてのブラジリアン柔術」を、2009年にはDVD「柔術技法 上下巻」を発表しました。その直後から、私はそれまでの柔術人生で学び、実践し、進化させてきた技術と指導メソッドの全てを、カリキュラムとしてまとめ始めました。
まとめたテクニックは、デモ動画をまず撮影しました。そして2011年頃からインストラクターにそれらの動画を共有し、ベーシッククラスにおいてカリキュラムをサイクルさせて教えるシステムを開始しました。澤田はまさにカリキュラム制移行期の世代であり、たぶん青帯の途中くらいからその制度に切り替わっていく様を、体感し、見届けたのではないかと思います。
余談ではありますが、カズの出来事があって以降は、私はポジション別、動作別に起こりやすい怪我の事例の研究にも大いに取り組むようになりました。それらの知見もカリキュラムとインストラクターコースに反映させています。
2013年、まとめたカリキュラムを著作&三枚組のDVDで発表するという大きなプロジェクトを、愛隆堂の今堀社長から頂きました。私の柔術人生の前半の集大成ともいえる仕事です。その撮影パートナーをカズにお願いすることにしました。
果てしなく続くブラジリアン柔術 製作秘話1
http://tfbjj.doorblog.jp/archives/52318124.html
ラストカズダンス
いよいよ最終章です。カズと通った愛隆堂スタジオでの撮影は、半年くらい掛かりました。そして2014年、著作「ブラジリアン柔術教則本」は無事に発表の日を迎えることが出来ました。お陰様でベストセラーとなり、日本の柔術史に残る作品を、今堀社長とカズと私の3人で作り上げることが出来たと思っています。
受け手であるカズの顔は表紙には写っていません。思えばカズは、柔術家としての私をいつも後ろから支え、黒子に徹し、応援し、励まし、助けてくれる存在でした。届いた書籍の表紙に自分の頭頂部しか写っていなかったとしても、満面の笑みで完成を喜んでくれたであろうカズの顔が目に浮かびます。
顔が見えている人間だけがヒーローとは限りません。スポットが当たらずとも必要不可欠な存在が世の中にはたくさんあります。あの本におけるカズもそんな存在でした。指導から退役することになり、結果的にあの撮影は私とカズにとっての最後の共同作業、ラストダンスとなりました。無理やりそのワードで結んでみました。お互いに残りの半生も精一杯何かに向かって努力していこうと思います。
エピローグ
カズの首はその後どうなったか。確かなことは分かりませんが、たぶん勝手に治ってるってこともないのでしょう。スパーリングをやって試してみないと分かりません。しかしもうそんなことは後半のカズの柔術人生ではどうでも良いことになっていたと思います。たとえハンディがあっても、柔術に携わることができる、柔術を楽しむことができる、カズにとってはそれが全てだったんじゃないかなと。
そして人生は長いです。カズがいつか言ってました。色々あったけど、何気に俺たちはまだ高橋パパ(還暦後に黒帯を取得された会員さん)が柔術をはじめた年齢にも達していない。これからまた何が起こるか分からない。治癒する可能性だってある。いつかまたスパーリングがやれる日が来るかも知れない。俺はその日を楽しみにしてるよと。